top of page

三原橋の歴史

○History

  三原橋は、川幅が三十間(約55m)あっとといわれる「三十間堀川」に架かっていました。この堀は江戸時代初期(1603〜1612)に掘られました。

実は、この堀沿いまでが江戸前島の東海岸で、三十間向こう側を埋め立てていく形で、残された部分が堀となりました。この海岸線から近世都市江戸の埋め立てが始まるという、都市として記念すべき場所だといわれています。

 また、三原橋は江戸後期(1700年代後半)に架けられたと考えられています。

 現存する三原橋は昭和4年(1929)に架け替えられた震災復興橋梁です。戦後の瓦礫で掘割はすべて埋められてしまいましたが、奇跡的に残った三原橋と橋下の地下空間は、水運さかんな水の街としての記憶を残す貴重な場所です。

埋め立て直前の三十間堀川(1948)        京橋図書館蔵

建物が建てられる直前の三原橋と地下街(1951)

映画「銀座化粧」より/このような橋詰広場の復活も考えられる。

○三原橋の主要経緯

 1603年(慶長8年)江戸幕府開府と共に、江戸前島の東海岸より埋め立てが始まる。三十間先に埋め立てていき、運河となる部分を埋め残す形で      掘割となった。

 1612年(慶長17年)入堀を整理するために完成。堀幅が三十間(55m)あることから三十間堀川と名付けられる。

  1700年代後半 三原橋の位置に橋が架けられる。地図上での表記は無い場合や「新シ橋(あたらしはし)」となっている。紀ノ国橋と木挽橋の後      に架けられたために呼ばれていたという。また、水押(みよし)橋という呼び名もあったという。

  1850年頃 三原橋という表記がこの頃から地図上に登場している。

 1828年(文政11年)川の幅が19間に狭められる。

 1916年(T5)コンクリートアーチ橋の三原橋竣工。

 1919年(T8)三原橋開通式。歌舞伎座寄贈の大アーチで橋の両側には紅白の柱に万国旗を渡した式場を設け、東京市長らが渡り初め。築地精        養軒で祝賀会が行われた。(竣工から開通式の3年の時間差についてはわかっていません。新聞に「改造の三原橋開通・・」とある      ことから、竣工から改装がなされていたのかと推測されています。)

 1928年(S4)震災復興橋梁として三原橋架け替え。コンクリートアーチ橋からプレートガーター橋に架け替えられる。この時の橋板・橋桁などが      現在も残っている。

 1948年(S23)三十間堀川が戦後の瓦礫によって埋められる。翌年1949年(S24)に工事が終了。

 1951年(S26)三原橋地下街の工事着工、翌年1952年(S27)に完成。

 1953年(S28)両脇の「三原橋センター」(三原橋観光館A館B館)が完成。

 1965年(S40)いわゆる「幻の地下街」が完成。当初は三原橋のテナントの移転先として作られたが移転は実現しなかった。

 1967年(S42)シネパトスの前身、ピンク映画専門館「銀座地球座」が開館。

 1988年(S63)地球座が改称し、「銀座シネパトス」へ。一般映画の上映館となる。

 2008年(H20)両棟の敷地を道路として活用することを決定した(都議会定例会での建設局長の答弁により)。また最近の建設局の説明によっても、       この頃に取り壊しの意向が決定したという。

 2012年(H24)銀座シネパトスの閉館が報道される。

 2013年(H25)銀座シネパトス閉館。その後、他のテナントが続いて退去。

 2014年(H26)最後の店舗、「カレーコーナー三原」が4月末をもって退去。

       同年4月17日、「解体工事のお知らせ」が張り出される。

       同年5月19日、解体工事開始

 

○三原橋の管理者について

  三原橋は都道である晴海通りの下に位置する地下街のため土地は東京都の持ち物である。新東京観光株式会社という民間業者がその土地を借り

  受け、両側の建物を管理しているという少し複雑な構造となっている。また、地下の店舗部分も管理はこの会社である。H26年10月末に解体工事   が終了する予定だがこれをもって東京都に土地が返還されると思われる。

 

三原橋と歌舞伎座(1946)

「銀座と戦争」(1986)より

 

created by  akiyo ooe , nonki kobayashi

bottom of page