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保存と利活用

 

~シンポジウムを通じて浮かび上がった「三原橋の歴史的・文化的価値」~

 

文・大絵晃世(三原橋を考える市民の会代表)

 

 

○三原橋の歴史的価値
三原橋地下街の歴史を遡ると,江戸時代初期に掘られた「三十間堀川」という川に掛かっていた「三原橋」という小さな橋にたどり着きます.この三十間堀川は江戸前島の東海岸の三十間(約54m)先を埋め立てていったことから逆に堀が出来上がるという成り立ちをしており,この掘割以南はすべて海だったという境界に位置します.古地図を参照とすると1850年代頃から「三原橋」の名称の表記が見られます.その後,何度か橋梁の架け替えが行われているはずですが,年代が正確に証明できる架け替え年としては1919年(大正8年)と,大正の震災後の1929年(昭和4年)が挙げられます.この1929年(昭和4年)の架け替えは震災復興事業として行われており,現在でもこの時の橋梁が晴海通りの下に埋まっていると考えられます.
時代は下り戦後,銀座は大量の瓦礫の処理に困っており,その瓦礫の処理場として三十間堀川の埋め立てが決定しました.この決定には,地代によって区画整理の費用を捻出するという意図もあったといいます.その時に,三十間堀川に架かる他の橋梁である木挽橋・豊玉橋の下は完全に埋められてしまいましたが,三原橋だけは都電が交差していたこともあり開発が決定し,その地下に空間が作られる事となりました.1951年(昭和26年)に地下街の工事が着工されました.さらに1953年(昭和28年),地下街の両側入り口には「三原橋観光館」というモダニズムの建築家である土浦亀城による設計の半円形の建築が建ちました(この際,地下部分も設計).そしてここに「銀座シネパトス」や昭和の面影を残す居酒屋などがテナントとして 入居し,近年まで営業されていたということなのです.これらの店舗はしばしばメディアや訪れる人々から「戦後復興期の活気を残している」と評されていました.このように三原橋地下街は,江戸~昭和という重層的な歴史的深度をもつ場所といえます.


○三原橋の文化的価値
もう一度江戸時代に遡ってみますと,この三十間堀川を隔てて,海側は木挽町とよばれ,歌舞伎などの町人文化が栄えた街でした.代々ここに土地を持つ地元の方の話によりますと,この三十間堀川は江戸城内と城外を分ける川だったといいます.町人文化と,高尚な文化としての江戸城内を結ぶ橋だったといえるのです(これは現在でも,銀座の街と歌舞伎座を繋げる道路としても機能しています).
また,現存する橋梁としては,復興局が架橋した115橋の震災復興橋梁の中で連続桁タイプの橋梁は4橋しかなく,その中で残っているのが三原橋だけであるという点は土木史的な意味でも貴重であるといいます(土木学会・伊東孝先生).さらに,橋梁のみが残っているのではなく地下空間も一緒に残っている点は他に類を見ません.この意味で,銀座が「水の街」であったという記憶が残る最後の空間であるといえます(建築史家・陣内秀信先生).

○まとめ
以上の歴史的・文化的価値を踏まえ,東京都や地元商店会に利活用の可能性を検討してもらえるよう提案をしています.歩行者を中心とした交通の要所として,緑地として,また,三原橋の歴史を伝える展示ブースや,休憩所などの役割を持たせて活用するなど,様々な開発できる余地があると考えます.老朽化した橋はいくらでも補修し,再利用できるといいます(構造家・金田充弘先生).
三十間堀川が埋め立てられるとき,地元住民代表・有識者・行政で話し合いが行われ,埋め立てが決定したといいます.それに比べますと地下街取り壊しのときは,このような話し合いが行われなかっため,説明不足による不満の声が地元からも聞かれたといいます.上記の価値について十分に検討した上で,三者が納得できる決定をしてほしいと望んでいます.

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